2010年10月11日月曜日

光の漂流・青い炎の巻 / 赤い闇の巻   愛洲昶




  光の漂流・青い炎の巻    愛洲昶




 冷たい青い炎に包まれていた。
おのれをすっぽりと包む青い炎のそとでは、永徳の屏風がめらめらと燃えあがり、頭の唐獅子が紅蓮の焔を噴きだす。
ちろちろと黄色い火炎が黒格子づたいに高天井を這う。
 白い煙、黄色い炎、黒い煙、赤い炎が幾重にも渦を捲き、ごうごうと硫黄くさい熱風が九十九茄子、紹鴎白天目……あまたの名物茶器を宙に捲きあげてゆく。
 黒光りする広い板敷きも、刺すような香りの真新しい青畳も、いまは火の海だ。
 寄せ手の喊声がいまは遠い潮騒のように聞こえ、耳を聾した鉄砲の発射音もいつしか間遠になった。
 そこかしこで切りむすぶ剣戟の音だけが灼熱の焔の壁をとおしてなおも聞えてくる。
 いまは残り少なになった近習たちを切りたてる、鎧武者の赤黒い影が七つ、八つ、焔の壁のすぐ向こうにまで迫る。
ただ独りおのればかりが、冷たい青い炎に包まれて、がくがくと骨を揺るがす寒さに震えている。
すでに致命傷となった右脇腹の槍傷からはいまもどくどくと血が流れだしている。
 激痛にこわばった下腹の筋肉を揉みほぐすなり、幅広の短刀の切っ先を、大きく肌蹴た左脇腹に浅く突きたて、裂帛の気合もろとも右脇腹までいっきに引き回した。激痛に瞬間跳ねあがる腰を前のめりに押えこむ。
 ほとばしる鮮血のなか、生白い腸が黄色い脂肪とともにはみだしてまるで生き物のように蠢く。赤黒い塊が喉を塞ぐ。
 くぐもった唸り声を発しながら両手におのれの腸を絡めた刹那、黄白色の閃光が眼底を貫き、爆裂の轟音があたりを揺るがして、いっさいは赤い闇に包まれた。

湖からの心地よい風に頬を撫でられて、ふと片目を開ければ、瑠璃色の甍も真新しい天守閣の軒端を過ぎる白雲がいくつも淡い翳を投げかけてゆく。
 背後の山地に連なる萌葱色の野からは雲雀の鳴き声が幽かに響いてくる。初夏の山野の馥郁たる香りに天地は満ちている。
 身震いして起き上がり、頭はなおも赤い闇に包まれたまま、不覚にも寝入ってしまった足下に忌々しげに眼を落とせば、磨きたてられた板敷きに黒ぐろとおのれの人形の滲みが付いている。
 髪の毛から衣装まですっかり汗みずくの信長は、肌に纏いつく衣を引き剥がし、濡れた下帯も投げ捨てると、
 「お蘭!」
甲高く、ひと声発した。
 敷居際に片膝をつく森蘭丸のほうを見向きもせずに、素っ裸のまま長い回廊をすたすたと大股に信長は湯殿目ざして歩いた。
 「風呂!」
 と、断るまでもない。
 用意の白襷を締めながら、十数歩遅れて、いつものことで別に慌てるふうもなく蘭丸が主人の後を追う。
 総檜の湯殿の広い湯船に五体を伸ばして、遠く琵琶湖対岸を見やる。
 夕雲棚引く湖岸の風情はいつにも増して美しく、長閑な限りだ。
 ただ、比叡の山から京にかけて、黒雲が蟠っている。
束の間の転寝に妙な夢を見たものだ、おのれの最期の瞬間を垣間見るとは! 
 両手で湯をかき回しながら、信長は独りごちていた。
 温めの湯だが後ろの筧からは熱湯が絶えず流れ落ちている。
 地下の大井戸から汲みあげた清水を地階の大釜で煮たて、天主までポンプ揚水された熱湯が筧に注ぐ仕組みになっていた。筧の真下の狭い湯船に浸かれば熱い風呂も愉しめるわけだった。ぐびぐびと喉を鳴らして、細いほうの筧から冷たい清水で喉を潤す。肩先に湧く玉の汗を冷やして吹きぬける涼風は、天守閣の甍の下とはいえ、野趣溢れる野天風呂の風情だ。
 流しでは襷掛けした蘭丸が桶を片手に、主人の背を流すばかりの態勢で蹲踞していたが、信長はそんな蘭丸には眼もくれずに、温い湯船に凭れて相変わらずおのれだけの思念を追っていた。

――そんな事がありうる筈はなかった。
 だが、築地塀に群がり、射落とす傍から切りもなく脇目も振らずに躍りこんでくる謀叛勢の旗差物にはみな、夜目にも鮮やかに水色桔梗の紋が青あおと染め抜かれていた。
 光秀め、やりおる! 確かに六月一日、その日ばかりは、京の町はがら空きとなることだろう。わが軍勢はみな遠方に出張っている。
 秀吉は中国方の豪将清水宗治の居城を水攻めにしているし、権六勝家は上杉に備えて富山に張り付いている。丹羽勢は四国攻めに、滝川勢は伊勢方面に出払っている。
 なるほど、山陰へ赴くはずの明智の軍勢一万五千余りが西北を掠めて、一転、本能寺を襲えば、守兵百五十人たらずに護られたこのれを、光秀は易々と屠ることが出来る。
 文字通り朝飯まえに、天下をおのれのものとすることが出来るのだ。だが、あの光秀が果たしてそこまでやるか? 
 面白い! 本能寺へは影のひとりを送りこんで、みごと光秀に討ち取らせてくれよう。
 この安土城へ押し寄せてくるのは、さしづめ左馬助秀満あたりか? 城門開いて一気にわれが突き入ってやったなら、左馬助め、さぞかし仰天することだろう。
 阿修羅も顔を背けるほどに荒れ狂って見せようか。久々に血が騒ぐが、この際、光秀の心底を見極めるためだけにでも、やってみるだけのことはある。
だがそれでは、守兵五百人たらずに護られたわが子信忠は防備の手薄なあの宿舎、妙覚寺を打って出て本能寺のわれと合流しようと試みたところで、大軍に阻まれてせいぜい近くの二条の御所を枕に討ち死にのほかはあるまい。
 倅の死と引き換えにしても惜しくはないほどに、光秀の心底をいま見極めることは果たして重要であろうか? 重要ではある……
 何とするか? ならば信忠このまま安土にとどめて、倅も影武者だけを京へ送らせるとするか? 
 いまから周到に手配りすれば、謀叛に走った光秀勢を京の盆地に袋の鼠にして、殲滅することは容易い。
 もっと手っ取り早いのは直ちに刺客の一団にあの金柑頭主従を追わせて、領国へ帰着するまえに屠ってしまうことだったが、……もう遅い。
 が、実のところ、光秀主従とその軍勢の大方を、いまのいま失うのはいかにも惜しい。あれはいまやわが織田の一の軍団でもあるのだ。猿には足らぬものがあの金柑頭にはあるのだ。
 ここはやんわりと、ただ独り金柑頭めの心胆寒からしめる程度に留めておくべきか? 
 主が見た寸刻の悪夢ゆえに、われのみが知る赤い闇ゆえに、おのが首が胴から離れては、いかな金柑頭も堪るまい。すべて確証は無いことなのだ。

 「お蘭、使い番を呼べ!」
 「ここに、でございますか?」
 「くどい!」
 「は、は」

甲冑姿で湯殿の外に控えた使い番十名に、相変わらず湯船に浸かって鼻をほじくりながら信長は次々に指令を発した。
 一の使い番は岐阜城の留守居役に派し、精兵五百を安土城へ急派するように命じた。
 二の使い番は清洲城の留守居役に派して、同様の命令を伝えた。岐阜と清洲の城下の辻つじには高札を立たせた。
 「われと思わん武士は、疾く、安土の城に馳せ参ずべし」
丹羽長秀と滝川一益にも、
 「精兵ばかりを引き連れて、疾く、安土の城に馳せ戻るべし」
 と、三の使い番、四の使い番に急告させた。
 各使い番には帰りの道すがら、庄屋の家々に立ち寄って、安土への街道筋の清掃と、篝火、換え馬の用意、軍兵への炊き出しを命じさせた。百姓への過分な褒美の銭もぬかりなく替え馬の背に括って持参させた。
信忠へは蘭丸、奥の帰蝶へは蘭丸よりは遥かに目下の寵童竹千代を遣って、ここ安土城での籠城の支度を、
「直ちに、大早稲でぬかりなくせよ」
 と、命じた。
すでに湯殿を出て、天守閣の欄干に背を凭れ、青い風に吹かれて胡坐をかきながら、浴衣に袖を通した信長は、五の使い番は柴田勝家に宛て、
 「上杉勢の監視を怠るな、寄騎の前田利家に精兵千五百を加えて、早々に安土に帰参させよ」
 と、命じさせた。
 むろん、そのことをまず利家に伝えさせたから、あの利家がわずかな供廻りだけを引き連れて、ひた駆けに先行して来るのは目に見えていた。
 六の使い番は、遥ばる中国路の羽柴筑前、猿めに宛て、
 「緩ゆると清水宗治と交渉せよ、強いて降服させるには及ばず、武装のまま主従ともども安土に帯同せよ」
 と、無理を命じた。
 竹中半兵衛亡き後秀吉の脇に控える知恵袋、黒田官兵衛を多分に意識してのことであった。
八の使い番、九の使い番は細川藤孝、高山右近に遣わして、光秀寄騎の任を解き、安土に急行せよと命じた。
 十の使い番は近衛前久に遣わして、
 「騎馬の青侍を率いて安土に急行せよ」
 とだけ告げさせた。
第七の使い番は領国で出陣の準備に追われる金柑頭光秀のもとに遣わして、
 「われは安土にあり。全幅の信頼は汝にあり。心して戦に励め」
 と、無くもがなの指令をことさらに告げさせた。
京、朝廷、公家連には何の使者も立てなかった。むろん、本能寺、妙覚寺へも何の音沙汰もない。単に、すっぽかしたのである。家康はつんぼ桟敷に置かれた。
 天正十年五月二十五日、夕闇迫る古今の名城安土の城は、燦然と夕陽に照り映えていた。





 早くも汗ばんだ肌を冷たい山風が心地よく吹きすぎてゆく。
 青鹿毛の荒馬に跨った信長はすでに半時あまりも若草匂う野面を単騎疾駆していた。
 青い闇のなかを疾駆する夜明け前の遠乗りに、付き従うのは半町ばかり遅れて森蘭丸、さらに一、二町遅れて近習十四、五騎ばかりである。
 昨夜来、白鉢巻、白襷に薙刀を小脇にかいこんだ姿も凛々しく、帰蝶は心利いた腰元二十余名を従えて、早速城内見回りを始めた。嫡男信忠は夜を徹して籠城準備の陣頭指揮に当たっていた。
 もとより信長に、安土はおろか、どの城であれ、籠城する意志などはまるでない。第一、いまこのとき敵勢が十重、二十重と城を取り囲んでいるわけでもない。
 身に迫る脅威がまさに本物であるならば、光秀いちにんの突発的な謀叛ではなくて細川藤孝や近衛前久などが絡んで上杉・毛利をも巻き込む謀略であるならば、一旦は岐阜城まで退いて、態勢の立て直しを図るのも一概に消極策とは言えまいに、そんな気配は微塵もなかった。
 いまは安土に信長が在ることこそが肝要なのだった。あとは、安土や岐阜、清洲の城内が何事もなしの退嬰懈怠に陥らなければそれで善いのである。
 昨日は黄昏時の転寝の、たかが悪夢ひとつに、なぜあれほどの反応を示してしまったのか? 
 ただ一点、それが、おのれの戦略の虚をあまりに見事に衝いていたからにほかならない…… 全軍は出払い、京の町に、その日ばかりは裸同然の信長が独り本能寺に逗留している……
 一の近臣光秀、その謀叛の可能性など、あんな夢を見るまでは、考えたこともなかった。
 まさに青天の霹靂、千慮の一失とはこのことであろう。
 しかし、どの武将であれ、これほどの好機を眼前に突きつけられたなら、指を咥えて眺めてはおるまい、いやしくも戦国武将であるならば。
 即日、謀叛を未然に封じ込める手を打ち終えてみれば、あとは移動中を大返しさせた全軍を無駄なく稼動させるばかりである。
 信長の考えは飛躍した。こうした懸念の生じ来たる、その大本を絶つべきなのだ。やがて安土に結集する軍勢をそのことに用いる。

二日後、付近の山麓で鷹狩の帰路、安土へ向かう街道を驀進する騎馬の一群と出遭った。
 「何者か!」
一喝すると、汗と埃にまみれ真っ黒な異様な風体の先頭の武者が下馬して、片鎌槍を背後に置き、にじり寄ってきた。中腰になって、髭茫々、落ち窪んだ眼窩に眼だけが異様に光るむさ苦しい貌を上げた。
 「殿!」
 「おう、利家か!」
見れば、利家の遥か後に下馬して控える武者たちもみな、鉢金に鎖帷子、頬当てだけをして、腰には大脇差をぶち込み、馬上槍、大槍を携えた異様な風体の者ばかり七、八名。
 馬ばかり十五、六頭もいるのは、鎧兜、旗差物を括りつけた替え馬と知れた。どの馬も白じらと噴き上げる荒い鼻息から、息も上がるほど駆け続けさせてきたことが分かる。
 「ふん!」
信長は手振りで利家の配下を一行の先頭の直後に立たせ、おのれは中ほどで利家と並んで緩やかに馬を歩ませた。
 ほどなく騎乗の鉄砲衆ばかり三、四十名が利家に追いついてきた。この鉄砲衆をしんがりに加えると、それまで終始無言であった信長がここで初めて、にりと笑った。北陸から迅速に、実戦本位の仕度で駆けつけてきたのが気に入ったのである。これならば利家の本隊三千は昼過ぎから順次、権六に出させた利家加勢の衆千五百も夕刻までには到着するであろう。
城下に入り、濠を渡ると、馬場口に岐阜、清洲から到着したばかりの精兵五百ずつが控えていた。即座に信忠指揮下に組み入れた。
 馬場中央には、直属の美濃衆、尾張衆の馬廻七千五百騎がすでに勢揃いして待機していた。そのままのなりで、利家、蘭丸を従えて、信長は直属馬廻衆を閲兵した。
 館へ入る前にすっかり忘れていたことを思い出した。
 濠端に屯していた有象無象のもののふは、先日、岐阜と清洲の城下で、辻つじの高札を見て馳せ参じた者たちだった。
 武士とは名ばかりで、手槍一本、猟銃一丁、刀一本を差して駆けつけた百姓、町人、猟師や漁師上がりの――むろん野伏りや落ち武者崩れも混じっていたが――屈強の男たちだった。その数ばかりは多くて、濠端を埋め尽くす彼らは軽く一万名を超えていた。
 若き日を思い出したのか信長は十人ごとに十卒長、百人ごとに百卒長、千人ごとに千卒長を彼らみずからに選ばせて、つまり十卒長は十人の卒に、百卒長は十人の十卒長に、千卒長は十人の百卒長に選ばせて、さっそく、翌日から付近の野辺で信長自身が叱咤する猛訓練を実施、訓練の過程で各卒長を選びなおし、十日間の基礎訓練が概成するや、直属の歩兵軍団とした。
 それゆえ新編の彼らにとって信長はただ独りの万卒長でもあった。峻厳極まりない万卒長ではあったが。
 多忙極まる信長は、やがて七人の影の一人、影三を正規の万卒長に任じた。むろん信長本人として、長槍の新編歩兵軍団一万余の指揮を執らせるためだ。
三日目には、丹羽長秀と滝川一益がそれぞれ手勢五百ばかりを引き連れて、安土に着到した。本隊の到着にはなお二日あまりかかると、両人が言う。
 四日目に細川藤孝、高山右近の軍勢三千七百余が安土城下に迫ると、これは城内に入れずに、城外の野に野営させた。
五日目には近衛前久が公家侍七百騎を率いて到着した。これは少数とはいえ、禁裏の軍隊である。
 信長は前久一騎を城内に招じ入れて用意の長曾我部元親宛の密書を手渡した。
 の密書は、いまからでも織田の軍威に服するならば、やはり四国一円を本領として改めて安堵してもよい、との内容であった。
 これを受け入れるならば、一子信親を人質に差し出し、早々に中国毛利へ討ちかかれ、と督励し、手勢七百騎を率いて、元親軍と共に毛利本国領内のいずれかの浜に上陸するまでが、前久に与えられた任務であった。
 和平の使者とは言いながら、これでは関白近衛前久がまるで信長の一部将並みの扱いを受けたことになる。
 元親と前久が果たしてどう出るか、とんぼ返りする前久勢の後姿を、安土城の天守閣から信長は興味津々で見送った。ともあれ、これで準備した大規模な四国征伐の兵団をひとまず送らずに済んだのである。
六日目の終日をかけて、丹羽長秀と滝川一益の軍勢一万七千と一万三千が安土に到着した。城下はこれらの軍兵で溢れ返った。
七日目、本能寺で過ごす筈であった六月一日、丹波兵主体の光秀勢が西北を掠めて山陰道に去ったことを確認した信長は、安土の城は信忠に任せて、十万と号する大兵団を率いて京に赴いた。
 安土から坂本までは大安宅船十隻を始めとする安宅船三十隻、大小の関船百五十隻、無数の小早舟、夥しい兵糧船を連ねて、茜射す琵琶の湖を渡った。




霧雨烟る六月のみどりの夜に京の御所を十重二十重と軍勢に囲ませた信長は、正親町天皇に即刻、安土への動座を迫った。
 むろん、すぐには動くはずもない。
 業を煮やした利家が、半刻後には御所の隅々に火をかけるから、女御、女房連も早々に退出せよ、と威嚇すると、ようやく牛車の用意をする慌しい気配が聞こえ、多数の衛士に護られた長ながしい天皇の行列の末尾が御所を出たときには、いつしか雨もやみ、雲の切れ目から夜半の月が皓皓と濡れた都大路を照らしていた。
 辻つじには篝火が焚かれ、京から坂本まで、長槍を突き立て松明を点した万余の兵士たちが道の両側を隈なく警護していた。前の新編歩兵軍団である。
 むろん、万卒長の信長こと影三も下馬して天皇の行列を見送った。長槍の歩兵軍団とはいえ千卒長十騎、百卒長百騎までは騎乗して指揮を執っていたから、彼らもそれぞれの持ち場で下馬して天皇の行列を見送ったのだった。これが武将の行列であったなら、たとえ信長その人の一行であろうと、彼らが下馬して見送ることは無い。
 天子が琵琶湖を渡って安土へ移ることをどこからともなく聞きつけた老若男女、京の人士は兵たちの足元の地べたに額づいて、今上を見送ったことだった。
 坂本から安土までは明あかと松明を点した関船二十隻と無数の小早舟の護衛のもと、さながら夜の湖上に舞い降りた天女の光の行列みたいに大安宅船三隻で琵琶湖を渡り、夜半の出立から翌々日の夕刻までには、天子の一行は安土城内の新御所に落ち着いた。
 城下口では信忠、帰蝶以下総勢の出迎えを受けている。
 帰蝶はつい最前まで奥庭で〈くちゅくちゅの木〉を擽っては百日紅の老樹の枝枝を揺るがせて、侍女たちと笑いさざめいていたのに、いまは珍しくも神妙な顔つきをしている。
 無事、天子護送の大任を果たしたのは丹羽長秀であった。
 京の治安維持を命じられた滝川一益も抜かりなく、その夜も、次の夜も、信長在京中は火事ひとつ、盗賊騒ぎひとつ起こらなかった。
 安土城本丸に落成した新築の木の香も高い清涼殿は間取りも京の御所と寸分違わず、天皇の住まいとして何の支障もなかった。ただひとつ、左右の間取りがまるで反対になっていることを除けば。
 勝手が違って、廊下で鉢合わせする女房たちも多かった。蔀を上げると、目の前に天守閣が聳えていた。初めはうっとりとその五層七重の天守閣の異様な壮麗さに見惚れていた女房たちの目も、やがていささか険を帯びてきた。
 主上のおわす清涼殿を見下ろす天守閣のその一角には帰蝶の居室があって、姫育ちのお濃ゆえ、欄干から身を乗りだしざま尻を捲くってぴしゃりと叩くようなはしたない真似は断じてしなかったであろうが、新御所の女房連と図らずも目があってしまったときにあかんべぐらいはしたかも知れないし、根がおおらかなひとだったから裾を絡げておしっこくらいはしたかも知れない。
 遠く鈴鹿の山並みを眺めながら天守閣からするのはおまるにするよりも遥かに気宇壮大で健康にも良いし、滝のごとくしたところで、遥か下の清涼殿の屋根瓦に達するころには狭霧のごとく清らかな大気に紛れてしまう。
 そんな狭霧に虹のかかることだって、一度や二度はあったことだろう。
 清少納言に良く似た女房連の一人が蔀を上げて、裾を直す帰蝶の姿を、頭上遥かに遠く目撃したのかも知れない。

明けて六月二日、京において信長は突如、全国に触れて、太陰旧暦を廃してグレゴリオ太陽暦を採用した。ローマ教皇グレゴリウス十三世に先んずること、三月余りであった。ゆえに東方では、グレゴリオ暦はもっぱら信長太陽暦として知られるに至った。
 もとより当時、この日本では地動説もグレゴリオ暦も信長独りが良く理解するばかりで、一般には一向に浸透していなかったから、織田家の祐筆たちは、新暦に旧暦を併記することで、姑息ながら対処した。
 織田の家中にしてそうであるから、他は推して知るべしであった。
 それでも勅書からお触書に至るまで、以後のあらゆる公文書に新暦の日付が欠けていれば、必ず朱筆を入れて加筆した。
 なにしろ、懈怠があれば首ひとつ飛びかねないから、彼らも必死だったのである。
 こうして天正十年六月二日は、この日より一五八二年七月一日とはなった。
 奇しくも信長が夢のなかで、冷たい青い炎に包まれて最期を遂げたその日であり、信長本人の人格も傍目にはしかと確かめようはないものの、やがて深甚なる変容を蒙っていったから、日本と世界の歴史もその日あたりを境に、いささか歩みを変えざるをえなかった。信長の身体に不可逆の異変が生じたことを本人がしかと確認せざるをえなかったのもこの日深夜のことであった。
新暦一五八二年は七月の明くる二日、暁闇の中国は山陽道に向けて、七万三千の大軍を率いて信長は出陣した。
 先陣は細川藤孝、高山右近の軍勢三千七百余と池田恒興、中川瀬兵衛、塩川吉大夫の六千三百余、それに滝川一益の軍勢一万三千ばかり。
 中軍は前田利家率いる本陣勢四千五百と、信長と近習団七十六騎、信長直属の美濃・尾張衆馬廻七千五百騎、それに信長こと影三率いる新編の長槍歩兵軍団一万余、うち三千は堺から届いたばかりの新銃を装備していた。
 彼ら屈強の新兵たちは、左肩に馴染んだ長槍、右肩には扱いなれぬ新式鉄砲を担いで進軍したものである。
 殿軍は丹羽長秀の一万七千と寄騎の筒井順慶ら一万一千であった。
 安土の城は五千五百の兵を配して、天子を擁する信忠が堅く守って、本州中央に睨みを利かせていた。能登では上杉勢が油断のならぬ動きをくり返していた。柴田勝家が敗れれば、安土城を一揉みに一気に京に雪崩れこみそうな旗色であった。しかし細作の報告を総合して謙信にその意図は無いと信長は確信していた



遠い稲光を受けて、濡れそぼった馬上槍の穂先が雨滴を弾いては、闇のなかにぴかりぴかりと光る。
 兜と鎧の隙間から、横殴りの冷たい雨が容赦なく肌に染みとおる。
 街道とはいえ狭い山道は雨中暗夜に二騎以上の並走ができない。
 馬も兵も駆け続けて、とうに限界を超えつつある。
 なのに光秀は停止の命令を発しようともしない。
 さらに一、二町を駆けとおして漸く手綱を引き絞り、全軍に停止を命じ、食餌を摂らせた。
 あの運命の老ノ坂で左に転じて京、本能寺に信長を襲殺する目論見は、この雨のなか、まさに水泡に帰した。
 唐櫃越、明智越、老ノ坂と三手に分かった軍勢が、山筋を駆け下って、一挙に京を制圧するはずであった。
 安土と京の連絡路を遮断して、退路、救援の途を絶つことが第一。
 京の洛中、洛外を完全に制圧下に置くことが第二。
 信長父子を襲殺することが第三、これは今回の行動の眼目ではあるが、軍事的には赤子の手を捻るも同然の容易いことであった。
 ひとたびこのおれが発起したならば、たとえ寸前に察知しても洛中の信長に、対処はおろか、遁れる術さえない。
 問題は信長父子襲殺の以後にあった。
 近江、丹波、山城と、摂津、河内、和泉、大和の七カ国を支配して、畿内を統治することになんの不安もない。
 いまある領国の治世を拡げ、及ぼすだけのことだ。細川藤孝と筒井順慶も尽力してくれよう。
 近衛前久の奔走で、このおれに将軍宣下があれば言うことはない。
 織田遺臣群は各個撃破してゆくばかりだ。
 やはり最大の敵は羽柴秀吉だろう。中国の毛利、四国の長曾我部、摂津のわれと三方から攻め立てるほかはあるまい。
 柴田勝家には上杉、滝川一益には徳川を当て、丹羽長秀などは取り込みたいものだが、信雄、信孝の処遇をどうするか、すぐには敵対してこないとなると、かえって厄介だ。
 すべては流動的である。戦国武将としての面白みもそこにある……
 雨中に糒を齧りながら、光秀は思わず笑ってしまった。
 この雨のなか、すべてはまさに水泡に帰してしまった。
 鬱々と眠れぬ夜もあったのに、それがいまは全軍が西国街道をひた走っている。
 頭の中は空っぽで、全身に染み渡るこの安堵感はまたどうだ。いつ誅殺されても可笑しくないというのに。
 亀山城天守閣で戦評定のまさに真っ最中に、信長の使い番が到着した。
 「われは安土にあり」だと、それではすべてが狂ってしまう。
 それにしてもなぜ主君がわざわざおのれの所在を臣下に明かすのだ。おれを疑っているのか?
 「全幅の信頼は汝にあり」
 ……ん? 信長はおれの叛意を嗅ぎつけたのだ。
 仮に言葉どおりの意味ならば、一戦をまえに、使い番にそんな言葉を託さねばならぬ総大将など、こちらから願い下げだ。
 これは《おまえの謀叛など見とおしだ》と聞かねばなるまい。
 「心して戦に励め」とは、言ってくれるものだ。
 まさか《安土に攻め寄せよ》と言うのではあるまい。
 対毛利戦のことを言っているのに間違えはないが、戦に手柄を立てるほどならば《直ちに誅殺はせぬ》、と言うのか? 
 甘く見られたものだ。
不幸中の幸いだったのは、あの夜、おのが叛意を重臣どもに明かす寸前に、信長の使い番が到着したことだった。
 明かした後ならば、使い番を切り捨てて、ただちに安土に攻め寄せざるをえなかったことだろう。
 かくして京、本能寺・妙覚寺に信長父子を襲殺して、天下を握るおれの野望は、画餅に帰してしまった。
 幸いだったのは、家臣、妻子を捲きこまずに済んだことだった。
 不幸だったのは、このおれがただの一度も天下人とはならずに、終生、誅殺の恐怖に脅えながら、信長にこき使われるよう、運命づけられてしまったことだろう。
 やがて入った細作からの報告も、遅きに失しはしたが、このことを裏付けていた。
 安土では、兵を募るのはおろか、ご丁寧にも籠城の準備まで始めていると言う。
 《どこまでこの明智を愚弄すれば気が済むのか、信長公よ!》
だが、しかし、このおれは、そんな信長に一面、信服してさえいるのだ! 
 だからこそ全身に染み渡るこの安堵感なのだ。
謀叛を成し遂げ天下人になる企てに集中していた眠られぬ夜々には、不安にうち震えていたこの心が、いまは全身どっぷりと疲労の海に浸かりながら主命に奔命するなかに安らぎさえを覚えている。
 いまでも主取りするなら信長以外にいないし、この戦国の世を大きく変えそうな大大名も悔しいことに信長以外にはいない。
 再び乗馬した光秀は、全軍の士気を濡れそぼる肌身に量りながら冷徹な指示を適宜発している。 しかし脳中には相変らず熱い思念が渦巻くばかりだ。
 このおれは自力だけではおのれの既成観念の殻からさえも抜けだせずにいる。
 これから先、つねに誅殺をちらつかせながらおれを酷使し続ける信長を必要としているのは、本当はこのおれ光秀自身なのかも知れない。
信長の指令どおり、高松城攻囲の秀吉勢の後ろ巻きをする意図などは端から無かった。遭遇した敵勢に遮二無二打ちかかり深入りし、山陰へと戦線を拡大する一方、戦果だけは大小に関らず事細かに安土に報じ続ければよい。指令に違背したことへの叱責はすぐには無かろう。あれば使い番もろとも闇に葬るまでだ。光秀は腹を括った。山陰を劫略した褒美が打ち首と言うことにはなるまい。伯耆の国から出雲、石見の国まで一気に抜けて、石見銀山を手中に収めればまた違った展望が拓けてくるかも知れなかった。
 相手は小早川隆景か、それとも吉川元春、元長父子か? 
 従来の戦法では毛利勢は手強い。兵は一対一では適う筈も無い。深入りの過程で一対四ないし五の小戦闘を積み重ねて、敵の主力に会敵したなら、子飼いを含め全鉄砲隊を一挙に投入して、毛利勢の度胆を抜き、敵陣の破綻箇所に波多野勢主体の地侍を乱入させたら、そこからは力押しの正攻法で押し捲るほかはあるまい。
 予備・迂回の軍勢は左馬助秀満の手勢三千七百ほどしか残るまい。
 前軍、中軍のあとには、この光秀の本陣勢二千五百も死力を尽くして戦うことになるだろう。
 小早川・吉川の両川の軍勢が前後に攻め寄せてきたなら、こちらに勝ち目はないが、備中高松城を挟んで秀吉軍と対峙する毛利勢に、その余裕のあろう筈がない。
 要は迅速果敢に山陰を劫略しまくることだ。
 水軍の援護がこちらにはなく、敵にはあることが痛いけれども、どのみち、一度や二度の窮地に斃れるほどの光秀ならば、あの猿面冠者の傘下に甘んじておればよいのだ。
 さしもの豪雨もいつしか小降りになってきた。人馬の汗と人いきれで暑苦しい狭い山道を、夜明け前の街道を光秀は先頭切って駆け下っていた。



二日続きの豪雨のあと、いまだ小雨けぶる水攻めの陣中に、信長の使い番が到着したのは、官兵衛相手に密談の真っ最中のことだった。
 目のまえには、高松城が天守閣二層のみを残して、濁水に没している。
 「はてさて『強いて降服させるには及ばず』とは、いったい如何なる料簡でござろうかな?」
 「ふむ、『緩ゆると清水宗治と交渉せよ』と言われずとも、現に時間は掛かっておろうが」
 「なおそのうえに『武装のまま主従ともども安土に帯同せよ』となると、これはもう無理難題を通り越して、判じ物でござるわい」
 「五月蝿い、よきに計らえ、おれは寝る!」
半具足のまま、楯板に身を横たえた秀吉は、早くも鼾を掻いている。
 「委細承知」
 と、使い番に告げる官兵衛の濁声を耳が捉えるのと、短いが深い眠りに落ちこむのと、ほぼ同時であった。
翌朝、まだ白々と夜も明けきらぬまに、あたり一帯に夥しい炊煙が立ち込め、香ばしい炊き立ての飯の匂いが、籠城将兵の胃の腑を、錐を揉み込むかのように襲った。
 「籠城の衆、藤吉郎秀吉めの馳走でござる! 早よう、おいでなされて、召し上がれ!」
出し抜けの胴間声に薄青い闇の波間に眼を凝らすと、風上の一本松あたりの沖で、小舟に揺られながら猿面小男の足軽が手招きをしている。
 目の下を見やると、何時の間に着けたのやら、八十余艘の空舟が軒端に並んでいる。
 「何だ?」
 「油断めさるな、秀吉の罠でござる!」
 「罠でも喰わざらぁなるめぇ!」
どやどやと足軽鉄砲衆が先頭の三十艘に二百人余り乗り込むと、後続の五十四艘に腹を空かせきった侍衆三百人弱が乗り込んで、侍大将赤松権左の号令一過、弾除けの楯を隙間なく並べ立てて漕ぎ出した。
 《馳走は嘘でも、渡りに舟のこの舟で、敵に目にもの見せてくれよう》
辛うじて水面に梢を覗かせている一本松に近づいた頃には、先刻の小男の足軽はもう一町ばかり先を漕ぎ進みながら「おいで、おいで」をして彼方を指さしている。
 その足軽の指の先には、そこだけが無人の土手に旗指物だけが立ち並び、白い蒸気が立ち上っている。
 炊き立ての飯の馨しい匂いも、どうやらそちらから一段と強く漂ってくるようだ。
 火のついた火縄を振り回しながら土手を駆け登った高松城の鉄砲足軽たちも、槍の穂先や抜き身の大太刀を煌めかせながら上陸した赤松の侍衆たちも、矢玉の届く範囲に伏勢のいないことを確認すると、ぎらつく眼ばかりは辺りを警戒しながら、ずらりと並んだ飯櫃に両手を突っ込んで、炊き立ての飯を口いっぱいに頬張り始めた。
 大きな飯櫃が七十余も一列に並び、間にはご丁寧に水桶まで置いてあった。
 「慌てるな、いちどきに喰うと死ぬぞ!」
 「白いまんまを食って死ねりゃあ、本望!」
口いっぱいに頬張って、眼を白黒させながら、水とともにやっと飲み下す者が続出した。
 それこそあっという間に飯櫃と水桶は空になり、両側を鉄砲足軽が警戒する中、早くも引き揚げに掛かった。
 身内への土産にと、袖口や襟元に、飯をごっそりと塗り込めた者も多かった。
 「おおい、待て待て!」
 「すわこそ、ござんなれ!」
槍、鉄砲を構えなおす城方の兵の鼻先に、丸腰の足軽三十人余りが現れて「どさりどさり」と米俵を置いていった。
 「御大将から清水宗治さまへの挨拶代わりだと、持ってきな!」

これが三日も続いた。さすがの宗治も小首を傾げたところに、軍師官兵衛が使者として単身乗り込んできた。
 「主だった者百五十名を除いて、帰順、退散はご勝手!」
 「その百五十名には切腹が赦されるのか?」
 「いやいや、降服も切腹も必要ござらぬ!」
 「なんと!」
 「清水宗治殿始め百五十名の方々には帯刀のまま、なんなら戦支度のまんまでも結構でござるぞ、上洛していただき、上様にお目通り願う。そのうえで帰順するなり、退散するなりはご勝手!」
 「ふむ、面妖な話じゃの」
 「この話、乗るか、乗らぬか?」
 「乗らざるを得まい!」
 一五八二年は七月の明くる二日、守将清水宗治は馬上にあって、上洛の途に就いた。
呆れたことに、付き従う侍大将赤松権左以下百五十名は騎乗のまま、あるは馬上槍を扱きつつ、あるは馬上筒の火縄の火を絶やさず、完全な戦支度で行軍した。
 その前後を倍する秀吉勢が、これも戦支度で固めている。
 「撃ってはならんぞ、屁もこくな!」
 荒小姓加藤清正が声を嗄らしたことだった。
 途中、赤穂付近で信長の先陣細川藤孝、高山右近の軍勢三千七百余と遭遇、赤松以下百五十名はそこに留め置かれて、宗治のみが本陣の信長に対面した。
 「これが猿めを梃子摺らせおった男か?」
 「は、はー」
 「よし、われの下につけ!」
 宗治のしかとした返事も聞き捨てに先陣に馬を飛ばした信長は、一目見て赤松以下百五十の面々の面構え、様子がいたく気に入り、即座に直属馬廻り衆に編入しようとした。
 「お待ちくだされ、われらは主清水宗治以外の下知は受け付けませぬ」
 「さもあらん、宗治に訊け!」
 こうして赤松権左以下百五十をしんがりに加えた直属馬廻り衆はやや尻が落着かぬものの、気概ではすでに毛利勢を呑んでいた。



 奈々の舌先が執拗に翔丸の菊座を舐る。
 窄まる花弁の行方を追って、舌先が蕾の中に押し入る。少年の苦蓬の味がここにある。
 奈々の舌先がそれを堪能し、おのれの唾とともに飲み下す。
 まだ青青しい両の尻肉に、ほっそりと白く長い指先が食い入って放さない。
少年の土筆ん坊みたいな一物が頭を振り上げ、精一杯怒張して震えている。
 そっと女の薄い肩を押し、信長が少年の尻を抱える。
 黒光りするおのれの逸物を少年の菊座に宛がうと、無造作に貫いた。
 「ぎゃあ!」
 反り返る痩せた胸を抱きしめながら、奈々が少年の土筆ん坊を口に含んで啜る。
 少年の血に塗れたおのれ自身を信長がゆっくりと出し入れする。
 そのたびに菫色の花弁がめくれて、裏側が薄白く露わになった。
 信長が少年の口を吸う。抜き出された逸物は奈々の口に含まれている。
 ふたたび少年の土筆ん坊を口に咥える奈々の尻を高く掲げて、信長が一気に貫く。杏色の乾いた菊座から濡れそぼった桃色の花園へ、花園から菊座へと、それは往復する。
 またもや少年の尻を抱えると、信長は腰の律動に身をまかせた。
 「あ、あーっ」
 甲高い歎声とともに夥しい精を少年の体内に信長は放っていた。
 と、仰け反る信長の背をむんずと捉えた長い左手がある。
 つい今しがた、密かな警護の任を弟坊丸以下に任せたばかりの蘭丸だった。右手は信長の股間に伸び、ふぐりの付け根と菊座の間を弄っている。
 と、蘭丸の中指が第二関節まで濡れた皮膚の中に没した。蟻の門渡りと呼ばれるその微妙な箇所に、小さな紫色の薔薇の蕾が濡れそぼって口をあけていた。
 人差し指と薬指が丹念に花がくを玩ぶ。小指と親指はふぐりと菊座に深く喰い入っている。
薔薇の蕾を押し潰すかのように節くれ立った蘭丸の一物が分け入ると、視界が虹色に包まれ、いつしか信長はくぐもった嗚咽を漏らしていた。
この紫の蕾の存在を知る者は奈々と蘭丸以外にいない。
 信長本人さえ、青い炎に包まれて生害する悪夢を見たあの遠い日の夕べに、おのれの股間に妙なむず痒さを覚えるまで、まるで何も気づきはしなかった。
 以来、掻き毟る痛痒さの中に数本の皺が寄り、丸みを帯びて浮き上がり、小さな異変はかの本能寺の悪夢の当日、天正十年六月二日つまり一五八二年七月一日に成就した。
 明け方の閨で紫の小さな蕾を、信長の股間に奈々が発見したのだった。朝日を浴びてその紫の蕾は煌めく雫を一滴垂らしていた。ヘルマフロディット、両性具有、ふたなり――アンドロギュノス信長の誕生である。

 の少年はすでに林間の陣屋を遠く離れていた。鷹狩の帰路、少年を捕らえた信長は少年を殺さず、くノ一の奈々に少年の調練を任せた。
 鈴鹿山中の樹上から信長めがけて手製の矢を放ったのがこの少年であったのは明白であったにもかかわらず、いつもの気紛れがこのときも働いたのか、翔丸という名さえ与えて、陰の小姓に加えたのは去年の十一月のことだった。
 「なら、おまえも親の顔を知らぬのだな?」
 三人の少年が星のない夜半の畦道を歩いていた。
 「うん」
 翔丸が頷く。
 「おれは村上水軍の漁師村で育った」と、影丸。「父も母も知らぬ」
 「それはこのおれも同じだが、そんなもの要らんさ、奈々さまがいて、信長がいる」と、光丸。「今日からはおまえがいちばん下の弟だ」
 蛙が鳴いている。
 「明日からの修行はきついぞ、荒稽古の合間こそ夜叉かと思う奈々さまだがな」と、影丸。「終われば、乳を飲ませてくれる」
 「あの満月にも見紛う乳房から」
 と、光丸が草笛を吹く。



 カァーン、カーン、カーン
 カッ、カッ、カッ
ここは金剛山麓。月のない星明りだけの冷たい夜気を震わせて、鋭い打突音が深山に木霊する。
中腹の木の下闇を、縦横に疾駆、飛翔、交差する狼か、猿か、ムササビか、三匹の生き物がある。
 いずれも夜目が利くらしい。
 「こい、春香!」
狼かとも見紛う素早さで跳躍、着地した大柄の少年が、太い赤樫の木刀を大上段に構える。
 「秋香、覚悟!」
の大枝から、小柄な童子が小太刀を口に咥えたまま、地上めがけて猿のように身を躍らせる。
 「夏香、まいる!」
同時に背後の梢から滑空してきた小柄なムササビ少女が、秋香の背めがけて、小石を三発放つ。 印字撃ちだ。
 カッ、カッ、カッ
赤樫の木刀が小石を三つとも正中に捉えて、弾き返す。
だが、そのときには、春香の左右の掌から投じられた小柄が赤樫刀の柄頭と物打ちに突き刺さる。
カツーン、カツーン
転瞬、金剛の構えを執っていなかったなら、二本の小柄は正確に、大柄の秋香の額と下腹に突き立っていたことだろう。
 「えいっ!」
胸めがけての小太刀の鋭い刺突を、真っ向から打ち据える。
撃ち落された小太刀はそのまま、春香は背後に続けざま、三回バクテンを切る。天に差し上げられた両手には、新たに握られた小柄が二本、星月夜の仄かな光を刃先に集めて煌めいた。
そのときには、
 カッ、カッ、カッ
着地した夏香が低い姿勢からまたも小石を三発放っていた。おかげで秋香は春香めがけて殺到する気勢を殺がれてしまった。
ガラリ
何を思ったか、秋香は木刀を地面に投げ出す。
 「組み打ちを所望!」
いきなり大手を広げて向き直った秋香は夏香に摑みかかる。必殺の諸手胴ばさみをするりと抜けた夏香の両踝を辛うじて摑むと天に高々と掲げた。匂い立つ若草の小さな黒い茂みが目のまえにあった。
大口を開けて貪る。割れ目に舌を入れて音高く啜る。春香はさかしまの夏香の半裸体が邪魔になって、小柄を投ずることが出来ない。
夏香は小石を握った両拳で憎い敵の胴を打つが、秋香は動じない。が、
 「あうっ!」
両手を離すなり、しゃがみ込んでしまった。夏香の小石を握った右拳が秋香のそそり立つ一物を襲い、小石を握った左拳が睾丸を思いっきり打ち据えたのだった。
三回転して三間も先にすっくと立った夏香は、拾い取った赤樫の木刀の切っ先をぴたりと秋香の眉間に据えて、正眼に構えた。若草の匂い立つ股間は肌蹴たまま、眸を怒りに赤く燃え上がらせている。
いつのまにか、春香は秋香の背後を取って、これも三間先で、小太刀を正眼に構えて、思わぬ椿事に乱れた心気を澄ましに掛かる。
二間、一間、三者の間合いが詰まる。
秋香は大手を広げて手刀を構え、左右の敵に備えるが、額に脂汗が滲み出る。不意に大音を発した。
 「参った!」
 「あーん」
途端に手放しで泣き声を張りあげた者がいる。夏香だ。
 「あーん、秋香があたいにいやらしいことをした」
春香がそっと寄り添って、震える小さな肩を抱いて慰める。
 「あいつはけだものだ。泣くな!」
 「あーん」
秋香は独り離れた樹間に立ち尽くし、無言で、これもぽろぽろと涙を流している。
 《おれは夏香に嫌われてしまった》
ここ三ヶ月間、山野を駆け巡って真剣勝負とさして変わらぬ激しい試合稽古に明け暮れてはいるが、秋香、春香、夏香は実は三人とも、兄弟とも見紛うほどに仲のよい幼馴染であった。腹違いながら、いずれも剣豪愛洲移香斎の玄孫である。気がつけば、伸びやかな三者の武技のひとつひとつが玄妙な陰の流に則っていた。
気を取り直して、春香が言う。
 「明日は曾爺さまが入港なさる。お祭りだ。それまでに、ならぬ堪忍するが堪忍、仲直りしようではないか」
 「すまなかった」
と、珍しく素直に大柄の秋香が痛む股間を両手で庇いながら、年下のふたりに頭を下げる。
 「うん」
と、可憐な鼻筋に涙を残したまま、夏香が春香を黒い円らな眸で見あげてこっくりをする。苦しげな声を発した秋香のほうは見やりもしない。
いつのまにか、青白い鎌にも似た薄い三日月が、谷間に吹く風に揺れる楢の梢に昇っていた。



一五八二年(天正十年)八月、明智光秀は月山富田城を攻めあぐねていた。富田川の濁流に大将自ら愛馬を乗り入れること三度、それでも遠く碗形の月山上に聳える堅城富田城は小揺るぎもしなかった。
対岸の水際近くまで曲輪が迫り出し、山頂の主郭まで幾重にも曲輪が連なって、矢玉を雨霰と浴びせかけてきて、明智勢を寄せ付けなかった。
連日の猛暑のなか前後七日に及ぶ合戦で、屈強な丹波の地侍たちもさすがに疲弊していた。先陣の捨石にとの布陣であったが、これまでの彼らの果敢な戦振りを目の当たりにして、光秀の心のうちには惜しむ思いも湧いてきたところだった。
このとき砂塵を捲いて、富田川の磧、右翼に参入しようとしている小勢がある。
 「左馬助、見てまいれ!」
 「はっ」と答えて陣馬に飛び乗り馳せてゆく左馬助秀満の後姿を見送った光秀の目が、先の小勢に後続する軍勢を捉えた。遠目にも異様な徒の兵ばかり、三千は下らない。訝しげに目を細める光秀。膠着状態となった攻城戦、この期に及んで合力に参ずる国侍が残っていたとも思われないのだが。
早くも左馬助が馳せ戻ってきた。後ろに鹿角兜の大男、異様な騎馬武者一騎を従えている。途中で出会ったものと見える。
 「殿! 僥倖にござるぞ」下馬するなり、満面に笑みを浮かべて左馬助秀満が吼える。「これなるは、尼子党の勇士、山中鹿之助殿、まさしく生きておられたのじゃ」
輪乗りの荒馬を飛び降りると、大身の槍を背後に敷き置いて黒武者が律儀に片膝をつく。それだけで大刀抜き打ちの間合いに入ったかのような妙な威圧感を覚えるこの武者を、光秀は冷ややかに見据えた。
 「一別以来じゃな」
尼子勝久ともども信長に拝謁させてから、すでに九年の月日が経っている。この間、播磨上月城明け渡しの折に勝久は切腹、毛利勢に降った鹿之助は確か、四年前に備中甲部川で斬られたのではなかったか?
 「わが配下の尼子の残党・地侍千五百もそちの采配に任せる。そちの三千と併せて、鉄砲の斉射を合図に、右翼より討ちかかるがよい」
 「は、は、有り難き幸せ」
 鹿之助は多くを語らなかった。月山富田城攻め、目前の富田川の磧での戦いが何よりも雄弁な述志となることを、光秀の眼を見て諒解したのだった。狂喜する尼子勢を率いて、一散に右手の河原へと駆け下っていった。
もう一つ、望外の幸運がこのとき光秀を見舞った。
ふと見れば、ゆるゆると後陣の間を抜けて本陣に近づいてくる武将がいる。筒井衆の驍将島左近だった。左近は上月城への援軍に加わっていたはずであったが、その後の消息を光秀は知らなかった。
 「いや、明智殿、わが身の運を御身に託しとうなった、赦されよ」 
左馬助秀満と顔を見合わせて思わずニカリと笑ってしまった光秀であったが、たちまち頬を引き締めて、
 「されば、わが後ろ捲きの兵二千七百を率いて、左翼左手より打ちかかれよ、鉄砲の斉射が合図じゃ」
左近主従二十数騎を見送って、光秀は腹の底から哄笑した。胸のうちにしこる老ノ坂以来の鬱屈が見事に溶け出していった。この一戦を前に、まさに飛車角を一挙に自軍に加えた思いであった。明智本軍の精鋭に、筒井衆の驍将島左近と尼子衆の勇士山中鹿之助を左右に加えれば、山陰に恐いものがあろうとは思えなかったから。
 「鉄砲衆七百五十を前面中央に出し、三段構えで斉射させよ。左馬助、そちは前軍・中軍を率いて渡河せい。敵が反撃に出てきたら、鉄砲衆は左右に引かせて、槍組を前に出し、中央突破を図れ。ただしそちも含めて、明智の騎馬隊を突撃させてはならぬ。
左翼の島左近、右翼の尼子衆が敵曲輪に取りつくのをしかと見定めてから、前軍・中軍をおもむろに進めるのじゃ。
中軍が敵曲輪に取りついたならば、本陣も渡河する」
 「それからは急調子、総掛りの城攻めですな?」
 「うむ」
この日夕刻までかけて一進一退の末に明智勢は月山富田城を略取した。図らずもこのときより織田方随一の武将としての展望が光秀に開けたのである。



秀吉は這い蹲っていた。上げた狭い額に砂粒がこびりついていた。
 「猿、こたびばかりは往生しているようじゃの」
 「へ、へえー」
幔幕の奥までずんずん歩いて総大将の床几にどかりと腰をおろした信長は無言で秀吉をねめつけた。
開城させて守将の清水宗治以下百五十名を安土に送り、荒小姓の福島正則に守らせたとはいえ、目のまえの高松城は相変わらず満満たる水面のかなたにある。日差山の小早川隆景、庚申山の吉川元春を睨んで、秀吉は石井山の本陣を動けないどころか、迂闊には築堤を崩して水を抜くことさえ出来ずにいる。
 なにしろ到着した毛利の援軍は輝元を総大将に四万とも五万とも言われている。濁水の対岸は二つの山麓から水際に至るまで毛利勢の旗指物と軍兵に満ち満ちている。こちらも総大将の出馬を仰ぎたくなるのは秀吉ならずとも無理のないところであった。
翌朝、先陣の細川藤孝、高山右近の軍勢三千七百余に日差山の小早川勢を猛攻させた信長は、堪え切れずに総反撃に転じた隆景が押し返して足守川を渡ったと見るや、
 「退け、退けーい!」
全軍を退かせて、築堤を一気に切らせたからたまらない。
 突然の出水に濁流に呑まれる者、溺れるものが続出し、小早川勢は大混乱に陥った。そこを築堤から弓鉄砲で釣瓶打ちにしたから、さしもの小早川勢も壊滅し、日差山に逃げ帰ったのは隆景主従三、四十騎に過ぎなかった。四方に離散して午後遅くようやく山頂に辿りついた者も五、六百名足らず。濁水中に得物を失った兵も少なくない。これでは後備えの兵一千三百と合わせてもとても日差山の陣を守り切れるものではない。 
 夕刻、死屍累々たる一面の泥濘を突っ切った池田恒興、中川瀬兵衛、塩川吉大夫ほか六千三百余の織田勢が山腹を駆け登ってみれば、陣幕、旗差し物だけを残して敵陣は蛻の殻であった。
同じ朝、早くも秀吉勢はいまの足守駅付近で吉川勢と激突した。一斉射撃の後、加藤清正を先陣に、秀吉勢は庚申山の吉川勢に錐を揉みこむかのようにもみこむ。続いて羽柴秀勝、中軍は蜂須賀正勝と秀吉の本陣、後備えは羽柴秀長であった。
 築堤破れて地続きとなった高松城からも福島正則が泥だらけの阿修羅となって駆けつける。いかに勇猛な吉川勢も秀吉勢全軍の敵ではなかった。昼過ぎまで庚申山の本陣を保ったものの、ついには備中国分寺まで追い落とされてしまった。
ここで毛利輝元は織田勢を迎えて「一戦を辞さず」との構えを見せた。その実、隆景が安国寺恵瓊をして、遅すぎた再度の和議をなおも画策する。
 「捨ておけ!」
坊主嫌いで面倒くさがりやの信長は恵瓊と会いもせず、毛利勢の退路一方を残して、三方を九万の総勢で取り囲む布陣を敷いた。堪らず、毛利勢は和議も結ばぬまま、その深夜に本国目指して退去していった。
 退去を急いだのは、長曾我部元親を総大将に七千五百の四国勢と近衛前久率いる公家侍七百騎が船頭明石与次兵衛の案内で門司に上陸し、毛利本国急襲の機を窺っているとの急報が入ったためでもあった。
一五八二年(天正十年)七月二十四日深更のことであった。
以後、織田勢は毛利水軍に悩まされはしたものの、毛利勢本軍を追って山陽道づたいに劫略を恣にし、各地の利に聡い、あるいは機を見るに敏な、隠れ反毛利方の土豪・国侍もおいおい参集して膨れ上がり、その数十五万を呼号した。
 この頃には、遠く九鬼水軍も援護に駆けつけて、毛利方の村上・小早川水軍との激闘を繰り返し、織田勢は川辺、矢掛、七日市、高屋、神辺と進み、今津、尾道、三原に到れば、元就の三男隆景が築いた三原城はもう目と鼻の先であった。満ち潮に海に浮かぶこの城はまさに浮城だった。
 「よき眺めよ!」
ここにおいて信長は全軍を大休止させた。浮城三原城を抜くことは、麾下の大軍をもってすれば容易い。だが、それには時間がかかる。いま信長にとって最も重要なのは時間であった。時に八月の十日、いつまでも中国の毛利にかかずらわっている暇は信長にはなかった。ここに初めて信長は恵瓊を試用した。直接、輝元を口説かせたのである。
 すでに明智光秀によって、石見銀山までも織田方に奪われていた輝元は、恵瓊が来ずとも、和議に屈するのは時間の問題であった。しかし抛って置けば、元就譲りの毛利特有のねちっこさ、粘り強さで、まだ半年や一年はかかりそうであった。これをいまの山口県あたりのみを毛利の本領として安堵して、和議を纏め上げたのは、素直に恵瓊の力量発揮と認めるべきかも知れない。それにしても安国寺恵瓊はこの一事をもって毛利方にいつまでも恨まれたことだった。
信長は時をおかず麾下の全軍をただちに京に引き返した。毛利征伐の全軍が帰着したのは、京の町には漸く秋風が立ちはじめたころのことだった。

(青い炎の巻・終)



赤い闇の巻


   

 信長の勢力が著しく西に伸びたこの頃、紀伊半島ではすでに根来、雑賀の勢力はかつてと較べれば著しく衰えていた。
 三度にわたる紀州攻めの結果、里は荒れ、辛うじて命ながらえた人びとも飢えていた。
 それでも雑賀荘、十ヶ郷のしぶとい海賊門徒たちは月明るく波静かなこの夜、離島の洞門など数箇所に隠し置いた安宅船一艘、関船四艘を沖合いに漕ぎ出し、小早二十七艘をこの隠れ浜、月が浜に漕ぎ寄せて、嬉々として女子供を乗り込ませ、黙黙と水食料を積み込んだ。雑賀衆二百三十五名、女子供二百八十人の乗り込んだ船団は、青い闇の白むころには九鬼水軍の厳しい監視の網を潜り抜けて、雑賀浦から南の海へと姿を消していった。
三度目の紀州雑賀攻めが極秘裏になされたのは一五八二年(天正十年)五月末のことだった。
 信長の命を受けた信孝自らが兵五千を率いて鷺宮道場を急襲した。不意を突かれた顕如上人は慌てた。雑賀孫一をはじめとする雑賀衆が必死に防戦し、関掃部守らも満身創痍となって支えるが、味方はわずか二百足らずになっていた。
 六月二日早暁の総攻撃に持ちこたえるすべもなく、鷺宮道場は紅蓮の炎をあげて炎上した。顕如上人は劫火のなか、踊るがごとく大往生を遂げた。孫一たちは身一つ切り抜けて逃げ散るのがやっとだった。
 奇しくもこの日、六月二日早暁には本能寺にあれば信長が光秀勢に囲まれて自刃しているはずの日であった。実際にはその二日に京において信長は突如全国に触れて旧暦を廃してグレゴリオ暦を採用している。誰知らぬことながら、法敵信長の身体が人知れず異様な異変に見舞われたのもその朝のことだった。

安宅船「茜丸」の船大将雑賀孫一は大帆柱を背に太平洋の荒波を見据えていた。右肩と左手に負った手傷が強い日差しと潮風にまだ疼く。四国沖を掠めて目指すは南薩坊津、途中どこにも寄港するつもりはなかった。
 「いや、命の洗濯も、今度ばかりは」
 「しすぎましたな」
と、船頭の五平が笑う。
前をゆく二艘の関船には的場源四郎と三井遊雲軒、後に従う二艘の関船には関掃部守と島与四郎がそれぞれ船将として乗り込んでいる。女子供、それに水食料はすべてこの「茜丸」と四艘の関船に収容したから、船内はかなり手狭である。雑賀孫六は三十四艘の小早を束ねて、鶴翼の備えで船団を護衛して進む。
 風波穏やかな折には甲板に女子供の嬌声が響き渡る奇妙に和やかな船団であったが、「茜丸」には二門の大筒と十挺の長鉄炮、四艘の関船にはそれぞれ八挺の長鉄炮を揃えて、雑賀衆のおのおのが腕に自慢の鉄炮を擬していたから、かなりの戦闘集団ではあった。一五八二年(天正十年)六月五日真昼のことである。
それより二日遅れて、津田監物の子照算が根来衆四百七十名を率いて、関船十艘、小早二十艘で船出した。目指すはやはり薩摩の志布志の港、こちらはいずれも黒尽くめの壮年の男ばかりの鉄炮集団であった。

そのころ九鬼嘉隆は甲鉄貼りの大安宅船「鬼宿丸」、信長の命名によりいまは改め「日本丸」甲板で大帆柱を背に酒を飲んでいた。
「おかしらー、根来の坊主どもが動き出しましたぜー!」
と、漕ぎ寄せた小早から梯子綱を駆け上がるなり、ましらの竜二が胴間声を張り上げる。
《殿と呼べ、てめえもいっぱし関船の将じゃねえか!》
と舌打ちする嘉隆の前にましらの竜二がどかりと胡坐をかいた。
「ふむ、三日めえには雑賀の孫一めが船出したんだったな」
「へえ、女子供も乗せて安宅船一艘、関船四艘、小早二、三十艘と、たいそう大掛りでやした。おれっちの目を掠められるとでも思ったんでやしょうかね?このまま見逃してええんで?」
と、不貞腐れて町人みたいな口を利く。
「ふむ、おめえはそのまま関船三艘、小早十五艘を率いて根来の坊主どもを追え、小早十艘を付けてやるから、帰りに連れてけ。連絡を絶やすな」
「お頭はどうするんで?」
「あたりき、孫一めを追うのさ! 風もよし、今すぐにでも出れましょう」
と、船頭の井口弥平次が口を挟む。
「ふむ、明日払暁、大安宅、安宅船三、関船十七、小早五十五で出陣する。南薩坊津で合流しようぞ。竜二、見え隠れに根来の坊主どもを追跡しても、手出しはならぬぞ!」

 戦支度の関船「京丸」 の甲板では帆柱を背に船将愛洲小七郎宗通が瞑目端座していた。
カァーン、カーン、カカーン
カッ、カッ、カッ
闇夜の波間に相変らず奇妙な打突音だけが響き渡る。最前、ましらのように帆柱を駆け登る春香の姿が垣間見えたが、甲板上には仁王立ちして金剛の構えを崩さない秋香だけがある。夏香の姿はどこにも見えない。艫で気配を殺しているのだ。宗通直伝「猿飛陰流」の修行もいまは佳境に入り、船上暗夜忍び同士の闘いを模している。
カツーン、カツーン
音も無く春香の小柄が飛び、払う間もなく秋香の赤樫の木刀に突き刺さる。
カッ、カッ、カッ
どこからともなく投じられた夏香の飛礫が宙を舞う。
前日までの不安定な小早上での試合稽古で三人とも格段と腕を上げたようだ。
つい先月までは白昼他の戦士たちに混じって船戦の猛訓練だった。航法、変幻自在な陣替えに始まり、大筒、長鉄砲、鉄砲の射撃訓練、斬り込みに際しては熊手、薙鎌、やがらもがら、金砕棒はおろか、焙烙火矢まで使用しての実戦さながらの徹底振りだった。
三人とも怪我こそしなかったが、赤銅色に日に日に日焼けして大人びき、素顔では夏香の美しさが際立ってきた。


  二

坊港の沖に立つ奇岩、双剣石が見えてきた。雑賀孫一は大きく伸びをした。朝日を浴びて二本の剣のように奇岩が光を放つ。早くも甲板に転び出た女子供が歓声を上げる。
「なんて綺麗!」
「孫一さま、ここでゆっくりできるのでしょう?」
「そうもしてられぬわ、一泊だけと思え」
折から湯治を兼ねて領内巡察に来ていた島津 義久に孫一が単身挨拶に出向いたあと、孫六の采配で昼飯抜きで午後までかかって、飲料水・新鮮野菜の補給を終えると、一行は孫一の無事帰着を待って、夕餉を摂り、芋焼酎を痛飲し、温泉に浸かってはまた痛飲した。むろん与四郎など積荷の商いに精を出す者たちもいたし、留守居を買って出た的場など七十余名は港内の関船から一歩も外へ出なかった。小早十二艘は終始湾内外を警戒していた。
夜半から突如、颶風が吹き荒れ、異様な風音に目を覚ました孫一らは風雨を衝いて港に駆けつけ、船の安全を確保してひとまず安堵したのだった。
明けてみれば被害は関船一艘、小早六艘に及び、沈没小早一艘を除いて修理後直ちに本隊を追尾することを島与四郎に命じて、孫一の船団はまだ波の荒い外海に早々に乗り出し、奄美大島を目指したのであった。
奄美はすでに亜熱帯の島である。突き抜けるような青さの海の果てにぽつんと浮かぶ孤島、僧俊寛の流刑で知られる喜界島の右手に、常緑の島が緑のお鉢を伏せたみたいにぽっかりと浮かんでいた。近づくに連れてむしろ長三角形の大きな島であることが分かる。船団は加計呂麻島との間の狭い大島海峡をぐるりと右に回りこむ。碧の海をイルカの群れが先導する。古仁屋の港に入ると、小旗を舳先に立てた琉球の役人が安宅船「茜丸」に小舟を寄せてきた。
「ふむ、奄美は琉球の支配下だったの?」
と、呑気に呟く孫一に、
「尚元王の親征政以来のことじゃって」
と、博識の船頭五平が顔を顰める。先日の島津 義久との面談中にこれが話題に上らなかった筈はないのだ。
通詞を介して飲料水・新鮮野菜の補給と港内一泊の許可を雑賀孫一が求めると、琉球役人は快く許可したが、所定の入港税は支払わねばならなかった。
上陸した孫一、源四郎、遊雲軒たちは琉球屋敷で役人と泡盛の古酒を酌み交した。非番の配下たちはそれぞれの宿に陣取って、島特産の黒糖焼酎を車座になって飲み交わした。女子供たちは三日ぶりの大地に大喜びだった。マングローブやオオヤドカリが珍しかったのだろう。陽の落ちる前に遊雲軒を残して、孫一と源四郎は港内の船団に戻った。留守居の関掃部守に土産の泡盛、配下たちには黒糖焼酎を持参したことは言うまでもない。

「おおーい、早く起きろ、起きないと置いて行くぞ!」
前夜に非番の配下どもと黒糖焼酎を痛飲したにもかかわらず、遊雲軒は夜明け前には女子供二百八十名を一人も余さず浜に出して小舟から親船へと乗船させ、船団は日の出とともに出港した。目指すは琉球、沖縄本島である。
徳之島、沖永良部島、与論島を右手はるかに望みながら、黒潮反流を利用しつつ南西に帆走する。風は西南西の風、船頭五平が工夫した三角の縦帆による間切り航走だ。三隻の関船もこの縦帆を思いのほか巧みに操って追随してくる。孫六率いる二十八艘の小早はと見ると帆柱を立て、こちらはぐんと小振りだがやはり三角帆を張っている。
与論島を過ぎれば沖縄本島は目の前だ。休息していた漕ぎ手も加わり、帆漕走、一段と加速する。金武湾具志川河口沖に先着したのは小早の先陣十二艘だった。やがて安宅船「茜丸」を真ん中に三隻の関船、小早十艘が到着した。後詰の小早六艘はまだかなり後方に散開している。
琉球王国は尚元王の第二王子尚永王の時代になっていた。早くも誰何の小舟が寄せてきた。港役人を「茜丸」楼閣に招じ入れると、雑賀孫一が
「勝連城のいまの主は誰か?」
と尋ね、飲料水・生鮮野菜の補給と港内一泊の許可を要求したものだった。

[勝連城の最後の城主・阿麻和利は、東アジアを中心とする海外交易を盛んに行って勢力を拡大した有力な按司で、琉球統一後も琉球王府から唯一王権を脅かす存在と目された。首里王府は、阿麻和利を抑えるために中城城に護佐丸を配置したり、琉球王・尚泰久の娘で絶世の美女と言われた百度踏揚を嫁がせるなどの策を行った。しかし、阿麻和利の王権奪取の野望は果 てることなく、最大のライバル中城城主の護佐丸を倒した後、首里城を攻めた(1458年)が大敗。王府軍に滅ぼされたとされている。]

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